しばらくタブーとされている話題がいくつかある。
年月を過ぎる事で解禁されて話題の一つが「日本原爆投下」である。
今もタブーとされているのが「東京大空襲」なのだ。
「原爆投下」と「東京大空襲」についてアメリカの情報を元に事実を紹介していく。
世界初の無差別テロについて
初めの予備知識として以下を紹介する。
「東京大空襲」と2度による「原爆」投下によって、合わせて約24万人以上ともいわれる人類史上類を見ない無差別殺人を一方的に受けた。
このことは残されている米軍の資料など、さまざまな証拠から人体実験を目的として日本に落としたと言えます。
「東京大空襲」について
ナパーム弾によって1944年から106回の空爆によって焼け死(死者8万人、被災者200万人超規模)にました。当時の新聞報道では「東京大焼殺」と呼称。
単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大である。
「東京大空襲」1945年1月の東京人口が500万人から8月には230万人に半減した。
1945年3月10日の東京大空襲では、二時間余りの爆撃で下町の住民10万人を焼き殺されました。
「ナパーム弾」について
東京大空襲で使われたのが「ナパーム弾」でした。
1942年米軍予算でハーバード大学ルイス・フレデリック・フィーザー(Louis Frederick Fieser)教授らによってDuponなどの協力で完成したナパーム弾( Napalm bomb)は、主燃焼材のナフサかガソリンか灯油にナパーム剤をゼリー状にしたものを充填した(当時)新型高温(900-1,300度)広域焼夷弾。
2001年にナパームの代替品であるMark77爆弾がアフガニスタンとイラクで使用されている。
Mark77爆弾は、ガソリンをジェット燃料に変えたもので、効果も見た目も変わらずより強力になったと思うが、ペンタゴンはこれはナパーム弾ではないと主張。これは本当に辞めたと言えるのだろうか?
Author – https://www.youtube.com/watch?v=ig4XOziHC2Q, パブリック・ドメイン, リンクによる
初めから民間人の殺傷が目的だった
ジョージ・マーシャルアメリカ陸軍参謀総長は、1945年11月15日に『戦略爆撃は紙で出来た日本の都市を慈悲なく焼き尽くす。民間人への空爆は日本を機能不全にさせる方法だ』と述べています。
米軍は、これに先立ち1943年2月から3月に米国・ユタ州ソルトレークシティー郊外の南西の砂漠にダグウェイ試爆場をもうけ、日本の木造家屋とドイツの建物を建設し村を作り、焼夷弾の燃焼実験を繰り返していました。
この実験では、日本の木造長屋を二階建ての二戸三棟の建物を4列も並べて、全部で十二棟二十四戸を建設されていて、それぞれトタン屋根、瓦屋根の二種類、雨戸や物干し台をつけ、ハワイから取り寄せた畳を家の中に敷き、ヒノキの代用としてロシアンスプルースで作り、日本家具や日用品も置かれ忠実に再現されていました。
日本の下町の町並みを忠実に再現し路地の幅も日本と同様でした。
このように忠実に再現が可能だったのも戦前の1937年までの18年間を、日本で設計士として働いたアントニン・レーモンドが米国に帰国後に設計に協力したからです。
「原爆」について
広島型と長崎型の2種類の原爆が投下された。
科学実験には、実験を2回試す必要がある。その2回目がそれぞれ日本国で行われた。
当時の米国軍部は原爆の威力を測定する意味合いで、沖合いから都市部に落とすことに変えました。
広島型(ウラン型)
1945年8月6日午前8時15分、米国のB-29爆撃機が1機、広島市上空に落とされました。これには原子爆弾が取り付けられていて、140,000人を超える市民の命が奪われました。爆発により、市の90%以上が損害を受けました。
長崎型(プルトニウム型)
1945年8月9日午前11時2分、米国のB-29爆撃機が1機、九州北西部に位置する長崎市に落とされました。これには原子爆弾が取り付けられていて、市の3分の1が灰になりました。
爆撃機エノラ・ゲイには従軍牧師(神父)が乗っていた
以下の文章は、本文を中略し抜粋して引用している為、必ず本文全文を読んで下さい。
原爆を投下した爆撃機エノラゲイの機長がカトリック信徒であった。
エノラゲイには、公表されている12名の軍人乗組員以外に、13人目の乗員がいたということだ。
その知られていなかった乗員は、アメリカカトリック教会の神父が一人乗機していたということだ。
出典元・引用文献:デスコト国連総会議長と歓談した。エノラゲイについて歴史的な発言だ。
真珠湾攻撃
真珠湾攻撃の報復と言う意見が必ず出てきますが、ルーズベルト大統領がドイツと戦争するために真珠湾攻撃を事前に無線傍受で知っていてそのままにしていたことは、「『真珠湾の審判』 ロバート・A・シオボールド著 中野五郎訳」に書かれています。
by Rear Admiral Robert A. Theobald U.S.A., ret.
洗脳の心理学
戦争が始まった経緯を今なら調べる事も探す事も可能です。しかし当時は不可能でした。
情報を分断・遮断され詮索する事も放棄させられていました。
戦争犯罪人を勝者の立場から裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判(日本=戦犯国家))に対する批判を禁じ、連合国に対する批判も出来ません。
さらに
検閲制度の存在そのものについて、新聞や雑誌、映画等が間接的にも言及してはならないことにっていました。
WGIP(War Guilt Information Program)とは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が占領政策として戦後、昭和20年から昭和27年までの7年間の占領期間に行った、戦争への罪悪感を徹底的に日本人の心に植えつける洗脳計画です。
これによって憎悪の矛先を米国から日本国へと変容させることに成功して現在に至ります。
「リスクと向き合う」
原爆が投下され、被ばく者の追跡調査が65年続いているのです。他の物質でこれだけのデータがあるはずがありません。また、国連科学委員会や国際放射線防護委員会(ICRP)を支えた研究者の努力で、ベクレルという放射線の活性をシーベルトという健康影響に換算していくプロセスなどについては、臓器ごとに影響を調べていて、とても化学物質ではできていないことをしているのです。こういうことを知ってもらって、数字通りのリスクだということを理解して欲しいのです。識者の方は、過剰に怖がらせるような発言はゆめゆめ慎んでほしいです。
「誰が」「何故」戦争を起こすのか?
癒着相関図
「原子力村の住民一覧」という資料サイトが作成した日米原子力関係を表す図表を掲示する。
出典元・引用文献:原子力村の住民一覧|癒着相関図
ナパーム弾は原爆よりも多くの日本人を殺傷している
原爆もナパーム弾も偶然民間人の元に落ちてきたのでは無く、民間人の無差別殺傷兵器だったのが理解できると思います。
そしてナパーム弾は原爆よりも多くの日本人を殺傷しているのです。
東京大空襲を指揮していたカーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay)大佐(当時)戦後ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され
- 『当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった』
- 『もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった』
- 『答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ』
と答えた。
1945年9月20日、記者会見でルメイは『戦争はソ連の参戦がなくても、原爆がなくても、二週間以内に終わっていたでしょう。原爆投下は、戦争終結とはなんら関係ありません』と答えている。
後の
1960年から本格化したベトナム戦争で、空軍参謀総長として指揮し、『ベトナムを石器時代に戻してやる』と答えている。
そして
この大佐に日本国は、1964年12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定され1964年12月7日に勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長(翌年アメリカ空軍からレジオン・オブ・メリット勲章を授与されている)から授与。
参考記事:IPSHU 研究報告シリーズ研究報告No. 33 現代世界経済秩序の形成とアメリカ海軍の役割 ―世界史の全体構図からみた「太平洋戦争」の歴史的意味とその教訓― 鹿野忠生・橋本金平
戦後の世代の私達が8月15日を前に
私達は、民間人への無差別攻撃について改めて論理を考えなければならない、旧来の『戦略爆撃は紙で出来た日本の都市を慈悲なく焼き尽くす。民間人への空爆は国家を機能不全にさせる方法だ』と同じならばなおさらだ。
広島の平和記念公園にある原爆慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませんから」と刻まれている。
主語がないこの言葉からは誰が過ちを犯したのかはっきりしない。
当時としてはコレが限界だったかもしれないが、そろそろ主語を加えても良いのではないだろうか?
「原爆の日」に、原爆慰霊碑を前にして原子爆弾などで亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りする。
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