海外に行くと直面する問題は「道」や「トイレ」の場所が分からない・・・。
- 外国人に道を聞くと、親切に教えてくれる。しかも、自分が知らないのにも関わらずだ。
- 日本人に道を聞くと、教えてくれる。しかも、自分が知ってる場合に限ってだ。
この「道を尋ねる」事に対するアクションの違いは何だろうか1?
日本人の場合
目的地までの正確な道順が分かっている場合には、道を教えてくれるが、道順が分からない場合教えてくれない。
完ぺきを求めて、完璧でない事を皆で批判する傾向がると感じている。完ぺきが基準になると減点方式となり、減点されないために失敗を恐れてしまう。不完全である事が基準ならば、加点方式となり、気が楽になるのではないだろうか?
外国人の場合
目的地までの正確な道順が分かっていなくても、自分の知っている限りで教えてくれる。たまに嘘の道も教えるし、間違っているかもしれないとしてもだ。
ショッピングモールなどで「トイレ」の場所が分からない場合、近くの人や店員に尋ねると保々教えてくれる経験が有る。しかし、彼ら彼女らの言う通りに歩いても、「トイレ」が見つからず、また間違ってる場合も多々ある。
意識の差
このような差は、無意識に判断している基準が異なるからだ。
日本人は、「正しい道順×教える能力」が重要だと考え、道順が分からなければ、自分には教える能力が無いので教えないと判断する。
外国人は、道順の正しさよりも「教える行為≠教える能力」と考え、正しい道順を知ってる方が良いが、それに関わらず「貴方に好意的で協力する」態度が重要と判断する。
海外に行って間違った道を教えられたとしても、「騙された」と考えず「普通の事」と知っていれば、「何人も道を聞くのが普通だから」と怒らずに済むよ。
「能力」と「意図」を評価出来るか?
道を聞く単純な事で国民性が見えてきた。日本は、達成可能の「能力」を評価軸を置くのに対した、外国人は、達成可能までの「行動・意図」を重要視する。
これは大きな意識差なのに、見逃されがちになる。
「能力」と「意図」を同列に扱うと、相手に対して対処が的外れで改善されない結果となる。
- 「能力が原因」ならば、本人の「能力」を伸ばす為の策を考える必要がる。
- 「意図が原因」ならば、本人の「考え方」を変える方法を考える必要がる。
当然だが、「意図」を持って「能力」がる事が一番良いのだ。社会に貢献する意図を持ち一生懸命に働く人でなければ、上手く回らないからである。協力する意図があって初めて、相手の「能力」を伸ばす努力をしようとする、私達のモチベーションになるはずだし、残念な場合はお別れしない。
例えば、相手の失敗した原因を、「能力」と「意図」に区別して話を進めなければ、話が空中分解して何を言っても意味がないし伝わらない。
- 相手の「能力が原因」なのに、「意図」と思い違い説教や精神論を振りかざすことになる。
- 相手の「意図が原因」なのに、「能力」と思い違い社員教育をやり直すことになる。
的外れな指摘は、お互いに不幸でしかない。
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